月が綺麗だ、と高崎は思った。 窓の外、視線の先には白く輝く丸い月があった。久しぶりに月を見た。最近ずっと、夜空を見上げることなどなかったから。あたりは暗く、真っ黒で静かな空気が拡がっている。それは少しだけ冷たい空気。たぶん、窓の向こうの世界でも。 不意に脇腹にひやりと冷たさを感じて驚く。反射的に目をつむって開く前の一瞬で、高崎はわかっていた。 負けてやらない、と何かの覚悟をして目を開くと、思ったよりも距離がなくて、息を詰める。 睫毛が絡まりそうだと思った。 なにを みてるの。 ささやかに耳に落ちる声。唇にかかる少しの吐息。 それが高崎には心地好くて、もう一度瞬きをする。 つきを みてた。 息だけを漏らすようにひそやかに伝える。いま自分は同じように云えただろうか。 なあ、宇都宮。 だけどそれを高崎は口にはしない。 ◇ 暗闇の中、高崎の目が光を映していたので宇都宮は覗き込んだ。ただ覗き込むだけではつまらないから、少しだけ驚かすように。 睫毛が絡むくらいまで近付いて、宇都宮が目線を真っ直ぐに尋ねれば、高崎は少し笑ったようだった。 つきを みてた。 息を、漏らすように。きょうは月が綺麗だ、と、小さく高崎は続けた。 寝台の上に散らばる高崎の髪を指先で遊びながら宇都宮は、きょうは十五夜だからね、と言う。 高崎の髪が指をさらっていくのが好きだった。 空気が澄みはじめたから綺麗に輝くよ、と言うと、ああ、そうか。だからか。とぼんやりと言葉が返ってきて、高崎の目はまた白い光を瞬かせた。 やわらかな空気を、そのとき高崎は纏っていた。 それがなんだか宇都宮には面白くない。 ◆ 触れた唇が濡れていて、その感触に驚いて薄く開けた歯列に宇都宮の舌が割り込んでくる。噛み付くみたいに舌や下唇や、粘膜の、弱いところを吸い上げたり舐めたりされて、高崎の背中から首筋あたりまでぞくぞくと電流が走る。 倒されていた身体にはいつのまにか体重がかけられていて、力が抜けたいま、高崎には押し返すことが出来ない。足の間に宇都宮の身体が割り込まれていて、動くことも出来なかった。 なんで急に、と声にならない声で高崎が問えば、宇都宮はゆっくりと笑う。 今は僕のことだけ考えていて。 今は、いまだけは。 こうしているときだけは、君は僕のものだから。 その囁きを、宇都宮が口にすることはない。 ◆ どうしてこうなったとか月に妬いてるのかとか、言ってやりたいことはたくさんあったけれど、もう言葉にならなかった。出来なかった。濡れた音が耳に響いて肩がはねる、息が上がって空気がうまく吸えない。 わかるのは柔らかな月の光を纏った宇都宮はもういないこと。高崎にはもうわからない。 月が見えていたあの瞬間、高崎は月が綺麗だと思っていた。それから、白い光になぞられた宇都宮を、綺麗だと思っていた。 なんだかお前って、月みたいだなあ そう言いかけて、やめた。 それはふとした思いつきの言葉。だけど言ってはいけない言葉のような気がした。 宇都宮は優しく笑ったはずなのに。寂しげに聞こえた言葉を掻き消すように唇を押し当てた。 だって、今は、なんて そんなの 声にならない。 ◆ 指を絡めた。苦しくて縋るように宇都宮を求めた。優しく撫でるように指が絡んだ。それだけで身体が震えた。涙が滲んだ。どうにかなりそうだった。 そのまま繋いだ手をふたり離すことができずにいれば、煌々とした月明かりは薄曇りに消えていく。 月と指先に宿る意思 20091003 |